隣町『壬生』のお殿様料理を食べに行った。
因みに、壬生町は数々の遺跡があり、戦国時代寛正3年(1462)壬生氏によって壬生城が築かれた。その後 徳川家のおもてなしの宿城として、北関東の要衝としての城下町および宿場町として栄えた。
近年 壬生藩四代藩主鳥井忠てる(ただてる)の御献立帳(女中が記録)が発見され、その献立を元に現代風にアレンジされたのが、壬生お殿様料理。されさて、、
これは楽しい!美味しい。時空を超えて食してる🌪
※記憶に留めたいミニ情報
近江国水口藩から下野国壬生藩に国替えになった鳥居忠てるが、干瓢の栽培を奨励したことが、今日の栃木県の干瓢生産の興隆につながっていた。近江の国から下野国へ、干瓢の産地が移った。現在栃木は国内干瓢生産の8割以上を占めている。
満足のお食事の後は、軽くウォーキング👟
ここは行くべきと薦められていた『西方城』に行った。壬生町からは車で15分のドライブだ。
想像以上の急坂を登る。竹林を過ぎ、杉、熊笹、藤、いっぱいのシダの山道。きつい。この城を攻めるにはさぞ大変であろう。20分ほど歩いて、頂上到着。壬生に街を展望できる。500年前にタイムスリップ。。。螺貝の音が聞こえる〜〜。
参考資料)西方城は宇都宮氏の一族である西方景泰を祖とする西方氏の居城です。皆川氏の領域と接する境目の城でしたが、1515年(永正12年)に宇都宮忠綱が皆川宗成との戦いで敗れた際に、この城も落城しています。その後、1585年(天正13年)に宇都宮国綱が佐竹義重の支援を得て皆川広照から城を奪還しましたが、1597年(慶長2年)に宇都宮氏が改易された際に廃城になったと思われます。現在城址は西の丸部分がゴルフ場開発のために消滅しているものの、その他の曲輪については土塁や空堀、竪堀などの遺構が良好に保存されています。登城口は東麓の長徳寺にあります。〜攻城団より